鳩山法相がバンバン死刑執行しているそうですね。日本の死刑は絞首刑だそうで、絞首台の床板が抜けるスイッチ1つとダミースイッチ3つを用意して4人の執行官にどれがどのスイッチかわからないように渡し、同時にボタンを押させるのだそうです。これで誰が本当のスイッチを押し死刑執行したのかわからなくなり、罪悪感を軽くする効用があるそうです。
つまり、ある悪行を行うのに複数の人間で分業すると、各個人はさほど罪の意識を感じなくて済むのです。分業者の人数は多ければ多いほど責任感を感じずに済みます。
さて、フィクサーを観ました。原題はMICHAEL CLAYTON、主人公の名前です。
600人も弁護士がいる法律事務職所属する弁護士で、不都合な状況をきれいに片付けるフィクサーとして長年働らく主人公。
長引く農薬の薬害訴訟に関連して、冒頭にあげたような多数の分業による悪事が行われていきます。
個々人は決して極悪人ではなく、むしろ自分の責任の範囲で善であると思われることをします。技術者は農薬が危険であり健康被害が出る可能性がある、しかし改善するには多額の費用がかかるという報告書を書き、自分の責任の範囲内で危険を上層部に告発するという善行を行います。それでも農薬を売り続けるのならそれは上層部の経営判断が悪なのであって自分は悪くないのだと。
そして経営陣は、農薬を安全化するための費用が会社が粒けれてしまうほど高すぎるとの理由でそのまま放置します。経営陣といえども万能ではなく限られたリソースを用いて最善の選択をするしかできない。農薬の安全化を選択しなかったのは、安い費用で安全化できる方法を提供できない技術者が悪いのであって、自分は悪くないのだ。
結局、農薬は販売され続けた結果、被害者がどんどん増え続えました。そして因果関係がはっきりしないまま、被害者は農薬会社を相手取って薬害訴訟が提訴しました。顧問契約を締結していた法律事務所は、依頼者の利益を最大限に優先し、農薬が健康被害をもたらすという報告を握りつぶし、農薬会社に有利の方向に訴訟を進めます。責められるべきは健康被害を出した顧客だ、自分はできるだけ賠償額を少なくするという使命を淡々とこないしているだけであって、自分は悪くないのだ。弁護士が600人もいるだけあって、個々人の罪悪感は微塵のほどもありません。
おそるべき責任転嫁スパイラル。きっとナチスドイツでユダヤ人をガス室送りにした現場担当者も同じようにして自己の罪悪感から目を背けていたのでしょう。組織による悪行はとてもこわいのです。
本作は決して勧善懲悪モノではないし悪徳弁護士のピカレスク映画でもありません。責任をあいまいにすることで悪行が続けられる現代社会の暗部について表現し、それにより精神が病んでいくある一人の弁護士、そしてその友人である主人公、その女上司などが複雑に絡み合ったドラマです。